yura*'s rakugaki diary

つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

VRゲームについて思うこと

 VRゲームについて考察。

 今までのゲームはPCにしろコンシューマにしろスマホにしろ、基本的に画面に映ったゲーム映像を見ながらプレイするのが普通だった。

 これがVRになり、画面という枠が取り払われ、直接ゲームの世界を覗くことができるようになった。

 当然、VRも文字通り眼の前にある画面を覗いているだけではあるのだけれど、体感ではそこに画面を意識することはない。

 今までのゲームが、

 [プレイヤー]→[画面]→[ゲーム世界]

 だったのに対して、VRゲームでは

 [プレイヤー]→[ゲーム世界]という構造に変化している。

 さらに大きな点は、今までのゲームでは1人称視点のゲームであろうとなかろうと、ゲーム世界のキャラクターの視点もしくは神の視点を映した画面をプレイヤーが眺めていたところから、VRゲームによって、プレイヤー自身の視点でゲーム世界を見ることができるようになったことである。

 先ほどの構図で表すと、

 [プレイヤー]→[画面]→[誰かの視点で見たゲーム世界]

 から

 [プレイヤー]→[プレイヤー自身の見るゲーム世界]

 に変化したのである。

 ゲームをプレイするプレイヤーは、すでにゲーム世界の一部になっているので、今までのゲームが、「ゲーム外のプレイヤーがどのようにゲーム世界に干渉しているようにみせかけるか」が没入感に影響していたのに対して、VRゲームではプレイヤーがすでに世界の一部であるので「ゲーム世界に干渉しているようにみせかける」必要はなく、むしろ、第三者目線で見せたいときに「いかにしてゲーム世界に干渉していないようにみせかけるか」が必要になってくる。

 今までのゲームでは、「ゲーム外のプレイヤーがどのようにゲーム世界に干渉しているようにみせかけるか」という工夫によって、

 [プレイヤー]→[画面]→[誰かの視点で見たゲーム世界]

 という構図を、

 [プレイヤー]→[プレイヤー自身の見るゲーム世界]

 という構図に近づけようとしていた。

 『Ever17 -the out of infinity-』という作品は、この今までのゲーム構造を逆手に取り、

 [プレイヤー]→[プレイヤー自身の見るゲーム世界]

 とプレイヤーに思わせておいて、最後に、

 [プレイヤー]→[画面]→[誰かの視点で見たゲーム世界]

 という構図に引き戻すことでカタルシスをもたらした。しかし、同じことをVRゲームで行おうとすると違和感が生じてしまう。なぜなら、VRゲームの構図が最初から

 [プレイヤー]→[プレイヤー自身の見るゲーム世界] 

 になっているからである。

 これを、

 [プレイヤー]→[画面]→[誰かの視点で見たゲーム世界]

 に変化するには、VR機器で見るYOUTUBEのようにバーチャルな画面を表示して疑似的に、

 [プレイヤー]→[画面]→[誰かの視点で見たゲーム世界]

 を表現することになる。しかし、そもそもプレイヤー自身がゲーム世界の一部になっていたにも関わらず、突然画面越しにゲーム世界を見ることになったとしたら、今までのゲームで起きたカタルシスは生じないであろう。

 プレイヤー自身がゲーム世界の一部となるということが、ゲームの表現に大きな変化をもたらすことは間違いない。

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